鴻之舞~当時の学校

鴻之舞小学校の歴史(大正7~昭和48年)

本校は鴻之舞鉱山の操業とともに始り、その閉山とともに栄光ある歴史を閉じました。

大正7年4月1日、元山の鉱夫浴場を模様替えした仮教授場で32人の児童と教員・高橋良英によって授業が開始されました。

学校としての正式許可をまたずに開始したのであって、それを経て藻鼈尋常小学校所属元山教授場となったのは翌8年3月26日で、この日開校式と第一回の卒業式をあげました。

この頃製錬所も建設され、社宅が鴻之舞寄りに移転しつつあったため、鴻之舞に校舎を建て、大正8年5月鴻之舞特別教授場の開校となりました。

この年4月から11月まで元山教授場は教員がなく休校となり、児童は鴻之舞に通学したので、1学級に97人を収容しました。

8年9月、特別規定による鴻之舞尋常小学校は、10年に正規の尋常小学校となり、元山はその所属となりました。

12年から元山の5、6年生は本校への通学となり、2学級編成となり、15年、元山教授場は廃止となり、高等科が併置されました。

 この年から児童の急増が続き、大正15年、158人(4学級)・昭和5年、302人(6学級)・10年、596人(11学級)・15年、1322人(27学級)・17年、1593人(31学級)と鉱業所事業の発展とともに膨張し、オホーツク地方管内最大の規模になり、校舎もこれにあわせ鉱業所において増築を重ねました。鉱業所が施設設備の充実に努めましたので、教育活動も旺盛で、名実ともにすぐれたものでありました。

 昭和18年(1943)金山整備の政府方針により4月1日、休山を発表、従業員の一部646人を残留させることとなり、このため児童数も激減し、終戦時には13学級612人、新学制下22年の小学校は12学級479人となっています。

 またこの年の卒業生の中には、作曲家としてご活躍された故・宮川泰(ひろし)氏がおります。同期生には卒業後、教職員の道を選んだ方も多く、戦後教育の一端を担った人材を全国に輩出しました。

 18年9月には休山の影響も大きく、学級減少により校舎の一部約300坪を新設の紋別中学校校舎として寄付することになり取り除かれました。

 昭和24年、製錬所が竣工し、逐次事業が拡大するに伴い、再び児童数も増加し、30年、824人(17学級)・34年、1170人(24学級)となりました。この頃より資源の減少で事業も縮小の一途をたどり、40年には391人(12学級)・45年、263人(8学級)に落ち込み、ついに48年、鉱山が閉山するに及び11月14日閉校式を行い、中学校とともに数多くの人材を社会に送り、教育の実績を残して半世紀を越える歴史の幕を閉じました。

 この間、鉱業所は29年に校舎を市に寄付するまで、戦前戦後を通じて校舎の建設、内容の充実に協力、熱意を示し、戦後もまた教育振興に協力し、学校もまたそれにこたえて努力を重ねてきました。

 26年図書館、理科室の整備利用、続いて教育課程の新編成、生活指導課程の創意と実践、学芸大学(現北海道教育大学)旭川分校協力校として学生の教育実習の指導を続け、また研究会を開くなど積極的活動を進められました。

 校舎も31年以来、改築を重ね、36年に教育関係はすべて新しくなり、41年には屋内体育館も竣工、36年にはPTAも220万円余を負担して給食設備を完備しましたが、いまは、無人の境と化した地域に、学舎跡地記念碑による面影の一端をとどめるのみです。

 歴代校長は梶井嘉一市、笠原郡治(兼任)、今井袈裟吉、角野米次郎、渡辺寿雄、工藤弥太郎、野村秀明、宇野繁勝、横山隆博、名畑善己、坂川久、藤田七郎、金子利久、加賀森太郎でありました(敬称略)。

<昭和13年当時最盛期の校舎全景~生徒数約1,500人 当時の管内最大規模>

<昭和14年当時の集合写真>

<昭和14年当時の集合写真>

<昭和15年当時の授業風景>

<昭和17年当時の集合写真>

<昭和18年当時の集合写真~男女組卒業時>

<昭和18年当時の集合写真~女子組卒業時>

<昭和18年当時の集合写真~卒業時>

<昭和18年当時の教職員の方たち>

<昭和30年の校舎全景>


上鴻之舞小学校の歴史(昭和5~43年)

昭和5年、上藻別原野国有未開地が植民地として設定されると各府県から19戸が入地しました。鴻之舞校から4~8キロの遠距離にある上にうっそうたる森林のなかにようやく人が通れる細道があるだけで、とうてい通学しえるものではありませんでした。
そこで町はここに特別教授場を設置することとなり、1752円で校舎を建設し、9月10日授業を開始しました。これが本校の創始で、鴻之舞尋常高等小学校所属・上鴻之舞特別教授場と称しました。

7年、鴻之舞~丸瀬布間道路が開通し、鴻之舞鉱業所拡張により隣接する校下の昭和区に繁華街が形成されて児童数が増加し、11年、上鴻之舞尋常小学校に昇格時55人、13年、79人で2学級、16年には昭和区は100戸をこえて児童も106人と最大となりましたが、鉱山休山の影響により20年には26人となりました。

以後、鉱山の復活で34年には、64人となるまで微増を続けましたが、それからは再び減少の一途をたどり、43年、8人となり、将来の入学予定者も少ないため3月をもって廃校になり、校舎は大谷幼稚園舎として払下げられました。

ここに至るまでには、27年4500平方メートルのグラウンドを拡張、30年には開校以来の研究会を開き、第1回教育週間を設定するなど教育活動も軌道に乗せ、一方32年、校舎新改築期成会を設けて運動を進め、翌33年新築落成(102坪)34年簡易水道管が完成して水不足が解消しました。

いま、この地区には住居一戸だになく、校跡もほとんどみられません。小学校に独立後の校長には、須藤耕三、里見三郎、河井清、下田義夫、新沼富七、山口由五郎が歴任されました。(敬省略)


鴻之舞中学校の歴史(昭和22~48年)

終戦後の学校制度改革により、昭和22年5月1日、3学級編成で開校しました。上藻別、藻別は分校でありましたが、前者は12月、後者は11月と相次いで独立し、校舎は小学校と職員室、屋内運動場を共用、3教室を借用しましたが生徒数の増加が続き、23年、(4学級)編制となりましたが、そのつど借用教室が増加していきました。
25年10月、町が鴻之舞鉱業所より借入れた地に校舎を新築、鉱業所は25年に90万円、26年には95万円をPTAを通じて贈り、新校舎の備品を整備することができました。27年には請願していた屋内体育館も落成し、校歌も制定されました。

その後も生徒数が増加し続け、37年まで4度も増築を重ねなければなりませんでしたが、37年頃から鉱山資源の枯渇により事業縮小に向い、社員の減少に伴う生徒の漸減で36年の509人を最高に47年には86人になり、48年鉱山の閉山により11月14日閉校式を行って、鉱山と運命をともにしました。この間2200余名の若き人材を社会に送り出しました。

本校の教育実践は住民の熱意と関心の強さもあって見るべき足跡を残し、28年には北海道学芸大学(現北海道教育大学)協力校として以後、教育実習生の受入れと指導にあたり、また能力別学級編成による試みを実践し、36年にはその研究会を開いたりもしていました。

26年には学芸大学付属函館中学校と、28年には同旭川中学校との合同研究を行うなど積極的に取組み、体育活動でも良い素質を育てあげ、昭和44年全国中学校スキー(純ジャンプ)で活躍し、昭和51年第12回オーストリア・インスブルックオリンピックに出場した角田幸司氏もその一人であります。

校長は工藤弥太郎、元村琢磨、小野健蔵、山田 茂、高木義雄、林 光高が歴任されました。(敬称略)

<昭和18年当時の集合写真~中・女組入学時>

<鴻之舞中学校 校歌>
作詞 勝 承夫
作曲 下総皖一
  昭和27年9月27日完成

緑の山のよそおいに
きよくすみ渡る心の朝よ
夢おゝき友集う我が鴻之舞
鉱業の文化はなさく我が郷土

まぶたに描く 幾山河
若き鴻はさきがけてゆく
友愛の歌ひびけ世界の空に
純情の理想燃えたつわが未来

もべつの川に影うつす
山は幸を呼ぶ希望の泉
黄金ともかがやかむわれらが願い
栄えゆく自治の楽園わが母校


高等科

<昭和20年当時の集合写真~高等科終了時>