鴻之舞の歴史

鴻之舞(こうのまい)の地名の由来は、北海道各地の他地名のようにアイヌ語の"クオノマイ"(仕掛け弓のある処)から採るように決まっており、その当て字は「久宝能舞」と「久保之舞」の二案があったと云われますが、命名者になる吉田久太郎氏は、鴻之舞と発案しました。その意味するところは、"鴻(おおとり)が辺りを威嚇して今にも飛び立とうとする様"を描いたと云われています。

 その鴻之舞地区は北海道紋別市の山間部にあり、国鉄名寄線紋別駅より約 28km、同遠軽駅より約 29kmの地にありました。事業所所在地の標高は海抜約150mです。

 この鴻之舞鉱山は、大正4年に発見されて以来、同6年には、数人の共同所有であった鉱業権を住友が買取り、整備開発がなされ、数十年の長い歴史を有しており、その間戦前から戦後にかけて東洋一の富鉱金山として栄えました。
昭和46年末までの総生産量は 金 64,281 Kg、銀 952,103 Kg に達しており、一つの鉱山としては、日本最大規模でした。

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【主な歴史】1916~1973年 (実質の操業期間は56年間)
 1916 鴻之舞鉱山誕生
 1917 住友が買収
 1918 製錬所完成、医療・教育施設開設
 1940 産金量国内第1位に
 1943 金山整備令によって休山
 1949 再開
 1955 史上最高の産金量を記録
 1973 閉山

【総生産量】金64.7トン
【最高生産量】金2.98トン(1955年)
【従業員数】4,600人(1942年)
【 人口 】13,000人(1942年)
【小 学 校】1920~1973
【中 学 校】1947~1973
【鴻紋軌道】1943~1949(区間28km)




<主な沿革>
大正 4年 当鉱山の発見、鉱区は地方有志所有。
  6年 住友所有となる。製錬所建設に着手。
  7年 12月 製錬操業開始。日量 15 トン処理。
   11年 31 トン/日処理。
   12年 11月13日 湧別川水力発電所より 300 KW 受電開始。
   13年 4月19日 製錬所付属発電所より出火、製錬所全焼。
    以後 1年間 操業停止。
   14年 96 トン/日 処理。元山本鉱床の大富鉱帯に着脈。
昭和 2年 五号坑鉱区買収。日量 112 トン 処理。
   4年 元山第 1 鉱床着脈。日量 160 トン 処理。
   6年 五号坑金子坑道にて大鉱脈に着脈。鴻之舞、丸瀬布間道路完成。
   7年 7月 鴻丸索道完成。日量上期 250 トン。下期 350 トン処理。
    倶知安内第一通洞開坑。
  8年 倶知安内竪坑起業着工。元山第二鉱床発見。三王坑買収。
 10年 900 トン/日 処理。国富鉱山買収。
 11年 1,200 トン/日 処理。
 15年 我国金山として、空前の年間 金 2,478 Kg、銀 46,225 Kg の生産なす。
  8月 第 9 沈澱池着工。
  16年 扞止堤(沈澱池)着工。倶知安内第一竪坑完成。
  17年 2月 3,000 トン/日 処理。8月25周年式典挙行。
  18年 金山整備令により休山、保坑鉱山となる。
昭和 20年 太平洋戦争終戦。鴻之舞鉱山より鴻之舞鉱業所に復活。
 23年 住友本社解散、4月26日 GHQより再開許可下り再建に着手。
 24年 製錬所竣功。400 トン/日 処理。
 25年 五号坑東部開発本格化する。
 26年 1月 600 トン/日処理。 4月 セレニュウム回収に成功。
  7月3日住吉坑着脈。
  30年 1,350トン処理。製錬破砕場炎上。
 33年 坑内運搬整備起業完成。
 36年 藤島鉱床ボーリング着脈。
 37年 藤島鉱床賦存が確認され、開坑に着手。
 38年 自立計画による縮小措置を実施。上期 950 トン、下期 730 トン/日 処理となる。
 42年 住吉坑終掘。 660 トン/日 処理。
 46年 元山、藤島坑終掘。操業規模を 約3分の1に縮小。220 トン 処理となる。
  7月鴻之舞鉱山と改称。10月 集中豪雨により沈澱池、坑内等に莫大な被害を受ける。
 48年 閉山に至る。

【鴻之舞金山鉱業権買収契約書】

(著作提供:八鍬金三氏)


以下、『年代別・鴻之舞の歴史』目黒幸一 著より抜粋

<大正期>
大正 4年 上藻鼈6線沢辺りに砂金と露頭の発見が囁かれ、11月・上藻鼈上流金龍沢の砂金有望の噂あり、沖野、羽柴外2名探査のため登山、鴻之舞金山発見の端緒を作る。

5年 5月中旬、池沢亨、飯田嘉吉、古谷憲英等と共に試掘共願をし、有志7人による組合経営として発足。6月には吉田久太郎、山長となり事業を開始する。

6年 1月末、住友と売山交渉のため吉田久太郎、外4名上阪、2月売買契約成立、中村啓二郎、田中作二、急遽大阪を出発、引続き小池宝三郎外来道す。この年製錬所建設に着手。

7年 4月より元山仮教授所、仮診療所・診療開始。12月製錬操業開始、15t/日処理。

8年 5月鴻之舞教授所、8月事業所医院開設。
 
9年 3月25日 財界恐慌のため鴻之舞鉱山経営危機により閉山論も出る。
 
10年 6月大石技師遠軽水域で発電水路調査、10月名寄線・全線回通。

11年 3月(住友40万円、北海電灯30万円)の出資により、湧別川水力電気株式会社設立。この年31t/日処理。

12年 1月上記発電所に事業認可、3月11日発電所起工式、11月元山第2通洞開坑、11月13日 300kw受電開始。

13年 4月19日製錬所付属発電所より出火製錬所全焼、以後1年間操業停止。

14年 5月3日元山第2通洞完成。9月元山本鉱床大富鉱帯に着脈。この年96t/日処理。

15年 紋別沿岸漁業者との間に鉱害賠償問題が惹起する。11月3日元山第3通洞完成、12月友子同盟解散す。


<戦前・戦中期>
昭和 2年 姫野近喜より五号坑鉱区買収。1月6日元山第3通洞完成。4月7日半恐慌状態現出、津軽より白滝まで石北線開通、日量 112 トン 処理。

4年 1月元山第 1 鉱床着脈、以後平行脈を補足する。5月5号坑洞開坑、日量 160 トン 処理。

6年 5号坑金子坑道にて大鉱脈に着脈、4月3日倶知安内第1通洞着手、11月18日着脈、同日鴻之舞、丸瀬布間道路(金八峠)完成。

7年 7月 鴻丸索道完成。日量上期 250 トン。下期 350 トン処理。9月1日石北線全線開通、9月6日倶知安内第一通洞開坑。

8年 3月倶知安第1通洞第1起業工事完成、4月倶知安内竪坑起業着工。9月元山第二鉱床発見。伊奈牛、余市、12月三王坑買収。

9年 第2鉱床に着脈。

10年 5月第4沈殿池廃泥漏出、鉱毒問題発生。6月元山第2通洞軌道複線化。900 トン/日 処理。国富鉱山買収。

11年 夏以降面接所(就業調べ所)坑道出入の確認所の開設、世話所の開設もこの年である。1,200 トン/日 処理。

12年 恩栄館(2,400人収容)の鑑賞施設建設竣工。

15年 我国金山として、空前の年間 金 2,478 Kg、銀 46,225 Kg の生産をなす。6月第8、9、沈殿池起業着工、倶知安内第1期工事270mまで完成。8月 第 9 沈澱池着工。武道館・光風殿竣工。

16年 6月扞止堤(沈澱池)工事着工。11月15日倶知安内第1竪坑3次完成。

17年 2月 第5次製錬起業完成、3,000 トン/日 処理。8月25日 25周年記念式典が挙行される。9月倶知安内第2竪坑2期工事(350m)地点まで完成。11月30日金山整備令の内示が届き、12月26日休山の正式命令を受ける。

18年 金山整備令により休山、1月下旬より人事異動、4月7日配転第1陣は(韓国人)4月18日は第2陣、5月中旬には移動ほぼ完了、残留者20名程度の保坑要員と伊奈牛八十士開発要員及び出征家族の100名近くと数十名の名目留守家族を残し、保坑鉱山となる。

19年 9月伊奈牛坑 100トン/日、11月八十士坑に 100トン/日、浮選場完成。


<戦後期>
昭和 20年 8月太平洋戦争終結。鉱山再開に向け秋より準備に入る。

21年 占領軍総司令部より持株会社と指定され、財閥解体により分離。

22年 12月末鉱山再開申請書通過。

23年 4月26日 GHQより再開許可下り再建に着手。5月11日 8号沢より山火発生。6月13日再開復旧製錬所起工式挙行される。 この年住友本社解散。

24年 7月第1次復旧工事完成試運転に入り400t/日を処理。10月第2次復旧計画、政府ならびに占領軍総司令部の承認を得る。11月12日製錬所竣工記念祝賀式典挙行。

25年 2月500kw 自家発電所完成。4月5号坑東部開発本格化する。5月再開後2次製錬所復旧起業着手。12月7日 住吉第3通洞開坑。

26年 1月 製錬所完成、600 トン/日 処理が可能となる。4月 セレニュウム回収に成功。 7月3日住吉坑着脈。

27年 9月 第3次製錬起業完成、1.000 トン/日 処理が可能となる。

30年 製錬破砕場炎上。1,350トン処理、7月金290kg、開山以来の産出量を達成。

33年 坑内運搬整備起業完成。

36年 藤島鉱床ボーリング着脈。

37年 藤島鉱床賦存が確認され、開坑に着手。

38年 自立計画による縮小措置を実施。上期 950 トン、下期 730 トン/日 処理となる。

40年 この頃より鉱石品位の低下と、物価・人件費の高騰をカバーするため、1.200t/日を試みるが確定鉱量の見なおし減等で一時的に終り、コストの低減と鉱滓内の有価鉱物の研究に力点を置くが、鉱質の変化(藤島、5号坑西)による実収率の低下(90%以上が70%台)で、減産の道をたどる。
 
42年 住吉坑終掘。 660 トン/日 処理。

46年 元山、藤島坑終掘。操業規模を 約3分の1に縮小。220 トン 処理となる。7月鴻之舞鉱山と改称。10月 集中豪雨により沈澱池、坑内等に莫大な被害を受ける。

48年 その後、新鉱脈の探査や合理化に努力を傾け存続の道を図るも、見るべき成果のないまま企業としての採算が成立せず、この年半世紀余りの歴史の幕を閉じることとなった。


<製錬所編>

大正 6年 9月鴻之舞製錬所建設に着手。

7年 7月搗鉱場と青化場の一部竣工する。9月、15トン/日、混汞青化製錬試運転開始。10月完成、12月25日 本格的操業を開始する。

11年 31トン/日、処理。

13年 33トン/日、処理。4月19日・発電所より出火製錬所を全焼する。以後1年間、操業を停止し、元山社宅・鴻之舞に移転する。

14年 96トン/日、処理となる。

昭和 2年 112トン/日、全泥式青化製錬所完成。

3年 140トン/日、処理。

4年 160トン/日 処理が可能となる。

5年 170トン/日、処理、11月第1青化場拡張工事に着手。

8年 第2次製錬拡張工事に着手。7月第2青化場操業開始。

9年 6月末、第3青化場拡張工事に着手。

10年 第1青化場の改築工事に着手。9月、第2選鉱、磨鉱、第3青化、操業開始で、900トン/日 となる。2月、金山整備令により休山処理運転を開始、4月まで残務処理。

11年 6月、第1青化場、第3青化場の完成で、1200トン/日処理となる。

14年 第4次拡張起業に着手、同時に第7沈殿池の工事着工。1月12日・政府より戦費調達のため、4000 トン/日、処理を目標とする増産5ヶ年計画の要請があり、11月の第4次拡張計画の完成を待ち、同時に第5次増産計画が発足する。
 
16年 2月、一部工事中ながらも、第5次増産計画のセレン工場完成。

17年 2月、第5次拡張計画の製錬所完成。 3000トン/日 の処理能力となる。

18年 2月、金山整備令により休山処理運転を開始、4月まで残務処理。

23年 6月13日、製錬所復旧工事起工式挙行。

24年 7月、第1次復旧工事完成、試運転に入る。10月、第2次復旧計画、総司令部と政府の承認を得る。11月、製錬所竣工記念祝賀式典挙行される。

25年 5月、第2次復旧工事完成、600トン/日 処理となる。

27年 9月、第3次復旧工事完成、1000トン/日処理となる。

30年 4月、破砕場、炎上。7月、 開山以来の最高月間産出量、290kgを挙げる。

46年 減産縮小、半数の減員、600トン/日となる。

48年 閉山となり3週間の残鉱出坑、10日間の機械運転、受入側より停止、後方に応援タンク、ストックのゼロ化と清掃、高品位鉱の売却、発送準備で終る。


<策道編>

大正 8年 元山露頭より製錬所まで木製櫓の索道が架設される。

14年 5月第二通道経由の方が安価のため上記索道廃止。

昭和 6年 11月倶知安内より元山間の索道建設に着手。

7年 5月15日・同上の索道完成。7月鴻之舞・丸瀬布間の索道完成。一部木製櫓を残すも大部分は鉄骨製の櫓となる。

10年 12月倶知安内より山王間の索道完成。(木製櫓)

11年 6月倶知安内より元山間の索道、全鉄骨製櫓複線工事完成。

?年 扞止堤に土堤用作業索道設置。(鉄骨製と木製櫓の組み合せで自動反転)

このように索道は、鴻之舞金山の開発当初より鉱石や資材運搬の手段として採用され、戦前戦後を通じて鉱山の歴史と共に歩み、鴻之舞の風物詩として人々に親しまれてきたが、昭和48年鉱山の閉山によってその歴史の幕を閉じることとなった。


<労働概史編>~牧田源次氏記

大正 5年 2月 本山大露頭発見 6月 事業開始 坑夫 20名

6年 2月 住友買山 (90万円) 7月 本操業開始 (精錬所15屯/日) 労働者数 124名 (うち坑夫 40名) 坑内夫1日当りの最高賃金 2円70銭 (道内平均3円・石炭山5円)

8年 インフレ、米価高騰・米騒動の発生で鉱山は男子労働者には1日米7合 女子労働者には5合を支給する「安米制度」を取り入れる。 だが実質賃金の維持ができず、生活苦から第一通洞の坑夫6名が賃金の値上げを要求。

13年 慢性的な不況により政府は金の価格変更を行った。 金の価格が上昇し、 鉱山の業績が好転。水力発電・全泥式精錬所の建設による操業規模の拡大で 労働者数は208名に増加する。(坑内賃金2円25銭・坑外賃金1円80銭)

友子同盟 友子同盟とはお互いが親分子分の関係で結びついた服従関係の組織。 同時に労働者同士の互助と共済機能をもち、初期の鴻之舞鉱山にも存在したが 大正15年健康保険法の成立とともに友子同盟は廃止された。

昭和 2年 友子同盟に代わって鴻愛会が発足し、会社による直接的労務管理の時代になる。

硅肺患者増加 珪酸分80%という鉱石と、削岩機の使用により労働者の硅肺患者が増加、 また坑内切羽から精錬所への鉱石運搬は、馬により行われていたために 馬も硅肺に罹り、寿命は1~3年であったという。

4年 世界大恐慌・失業者が急増の社会背景から、鴻之舞鉱山は旭川第7師団満期 除隊兵の採用に力を注ぎ、これにより事業所内に軍律型の労務管理が定着する。

6年 満州事変が勃発し金輸出の再禁止による円為替の下落で、金の価格が暴騰。 鴻之舞鉱山は住友のドル箱となる。

11年 第3次拡張起業により1200屯/日の増産となる。 労働者数 1,855名。

12年 日中戦争による軍備拡張で、戦費調達のため金の需要がさらに増大。 政府の産金奨励政策により鴻之舞の企業内地位はさらに上昇。 翌年には操業規模を2,000屯/日に拡張するも、労働者の不足と質の低下をきたす。

14年 政府による朝鮮人労働者の強制連行政策により、鴻之舞に配置となった朝鮮人 労働者は次の通りである。 この年、302名 昭和16年 894名 昭和17年 1,498名 この頃には精錬所から出る大量の鉱排水を貯留する 大規模な沈澱地造成のため地崎組によって、通称(タコ部屋)といわれる 強制労働が行われた。 この沈澱地は通称「地崎の沈澱」と呼ばれた。

16年 この頃には操業量 3,000屯/日 年間産金量 2,5屯 鴻之舞の人口は一万三千人を数える。 また12月には太平洋戦争に突入、金鉱山は不要産業の道へと歩むことになる。

18年 保坑要員455名を残し、朝鮮人労働者をも含め産銅部門や石炭産業、 ならびに海外の軍事産業部門などに配置転換となる。このため鴻之舞では 終戦後朝鮮人労働者による暴動は皆無であった。

20年 8月終戦、保坑要員とその家族1,100名は農耕による自給自足の生活 を余儀なくされ、紋別町へ(ムシロ旗)を掲げて米よこせデモを敢行をするも 戦争による働き手を失った農村では、全国的に食料の不足は改善されず、 辛うじてアメリカの食糧援助により生命を繋ぐこととなる。

労働組合の結成 この年の9月にいち早く労組を結成した鴻之舞の支山「伊奈牛鉱山労組」から 十数回に及ぶオルグの支援をうけ鴻之舞労組結成に着々と準備を重ね、 遂に12月23日恩栄館において、道労組連盟の関氏をはじめ多くの来賓を迎え、 鴻之舞労働組合は産声を上げた。 この時の初代組合長は「三浦五兵衛氏」である。

結成大会の決議事項 団体協約権の確立。経営参加。封建的人事管理の撤廃。食料の組合管理。 税金の会社負担。職制支配の廃止。女子の生理休暇ならびに有給休暇の確保。

21年 賃金・食料の確保のたたかいで一定の成果をあげるが、鉱山の閉鎖を危惧し 退職者が続出したが、鉱山に踏みとどまったのは、総員408名。7月職員組合結成。

22年 鉱山の早期再開を要求し組合員総退山宣言を決議。紛争状態の中で鉱山の 再開確約を取り付ける。
 
23年 鉱山の再開についてGHQの許可を受け、400屯/日 精錬所起工。

24年 精錬所竣工。操業再開に伴う従業員の急募が行われ、720名に増員となる。

25年 三田村四郎による職場防衛隊の組合内部へ浸透が深まる。 従業員数 921名となる。

26年 中等教育者不採用という会社の労務方針に反して、入社時に経歴を詐称した 組合活動家と見られる従業員十数名が解雇される。 なおこの年続いて坑内夫 全員による山猫争議が発生、(出鉱量約半減)、このときも十数名の活動家と見られる 従業員が解雇される。 従業員数1.000名を超える。

28年 労働組合の組織を守るために「職場防衛隊」の活動に対する闘争を強化。 坑内の職場移動(抽選制度)の職制支配排除を目的とした改善闘争。 個人商店による掛売り・高利貸し対策として労働金庫に加盟し、 組合員への低利融資をはかる。

29年 単組単独で初のスト権を構えた「3件闘争」。1、労使厚生委員会設置。 2、住宅の炊事場電灯の設置。3、会社購買施設の掛売制度を要求。 成果として2、は完全実施。1、2、は3,000円を会社で融資する制度を つくることで決着。これが後日住友全社の「泉会」(社員への融資制度) へと発展定着する。この年、既存の会社よりの婦人会に対して、労組 「鴻之舞主婦の会」を結成。この会員は約800名

30年 長年の懸案であった紋別市労協に加盟。前項の「3件闘争」後、山元の福利厚生関係の 改善を目的とした雑件闘争を毎年繰り返し、住鉱連傘下単組に波及。

31年 元山鉱の採掘を下請けしていた戸田組の労組結成を指導し成功。  
 
32年 坑内で重大災害の頻発に対し、単組単独でスト権を確立した「安保闘争」を展開。 総評新聞のトップ記事に掲載される。紋別市長選挙で革新勝利に貢献。
 
33年 坑内に臨時工が増加したため、臨時工の組合加入を実現し、これの本工化を図るため 団交を申し入れたが会社は拒絶。これを巡り地労委に提訴し、不当労働行為として勝訴。
34年 戸田組と同じく下請けの藤田建設で労働組合の結成を指導し成功する。

35年 歴史的安保闘争で地域共闘の実をあげる。

38年 非鉄金属の自由化による全社的合理化により、希望退職者募集により従業員581名へ激減。

39年 大幅な縮小合理化の整員闘争。

40年 鴻之舞労組創立20周年記念式典挙行。

43年 保安点検員配置。電気探鉱の女子臨時工労働条件闘争。

45年 鉱量枯渇による縮小合理化案が提示される。周辺部への探鉱努力を迫る。

46年 4/3 鉱量枯渇の実態を認め、組合員の意思を尊重した転勤や、関連会社への転換や 就職斡旋を条件に、操業規模の半減に伴う人事措置を了承妥結。組合員240名が転出し、 残留組合員180名。坑内の職場交代は抽選制度を廃止し、全員の一巡方式に切り替える。

48年 2/15 鴻之舞の全面閉山提案を受ける。 2年前の縮小と同様「一人の泣く者をも 出さない」を合言葉に、組合員の意思尊重を第一に、丁寧な人事措置を条件として、 4/24 妥結。4/28 確認大会。5/2 受入先の説明会。5/5 意向打診。 5/16 受入先の調査。5/21 調査結果報告。5/27 労組の解散大会。(式) 6/1 転出開始。 この金山の労働史も終わりを告げることになった。


<位置図・鉱床図>